楽譜製作の歴史と読みやすく音楽的で美しい楽譜について

Music Engraving

このエッセイでは伝統的なプレート・エングレービングから現代のコンピューター・エングレービングに至るまでの楽譜製作の簡単な歴史と、読みやすく音楽的で美しい楽譜にするために職人たちにより長い歴史の中で培われた楽譜製作技術の特徴のいくつかをご紹介します。


楽譜製作(ミュージック・エングレービング)の歴史

プレート・ミュージック・エングレービング

ミュージック・エングレーヴィングとは出版を意図とした高品質な楽譜製作を意味し、主に鉄板を彫って転写する為の原版を作るプレート・エングレービング(凹版印刷)と呼ばれる伝統的な手法をその語源としています。16世紀から使われてきたこの伝統的手法は20世紀前半にそのピークを迎えますがその後急速に衰退し、20世期後半にはコンピューター・エングレービングと呼ばれる、楽譜製作ソフトを利用したものに取って代られることになります1

プレート・ミュージック・エングレービングの職人になるためには約9年間の修行期間が必要で、高い技術と経験による職人技により、読みやすく美しい楽譜が生み出されました。楽譜製作は芸術であると言っても過言ではないと思います。

ミュージック・エングレーバーと呼ばれる、音楽に精通するプレート・エングレービングの職人達による手作業で生み出された楽譜は、音符間のスペーシング(間隔)や符幹の向きや長さ、連桁(れんこう)の角度、五線や加線、小節線の太さに始まり、一段に収める小節数やスラーの曲率、各種記号の配置(垂直・水平のバランス)、複雑な声部における音符の衝突の回避に至るまで、演奏者にとって読みやすく、美しい楽譜になる様な様々な工夫がなされています。読みやすく美しい楽譜の定義は出版社によって異なり、ハウス・スタイルと呼ばれる各出版社の楽譜の特徴は現在の楽譜製作ソフトウェアやそれを利用する音楽家にとって貴重なお手本となっています。

補足1

ドイツの有名な楽譜出版社、ヘンレ社(G. Henle Verlag)は2000年までプレート・エングレービングを継続しました。

{"preview_thumbnail":"/kazu-suwa-guitar/sites/default/files/styles/video_embed_wysiwyg_preview/public/video_thumbnails/BvyoKdW-Big.jpg?itok=8tngmX8t","video_url":"https://www.youtube.com/watch?v=BvyoKdW-Big","settings":{"responsive":1,"width":"854","height":"480","autoplay":1},"settings_summary":["Embedded Video (Responsive, autoplaying)."]}

コンピューター・ミュージック・エングレービング

80年代以降の世界的なパソコンの普及と共に、有名な音楽出版社も時間と手間がかかりコスト高なプレート・エングレービングからスコア(SCORE)やアマデウス(Amadeus)のような商用楽譜作成ソフトを使ったコンピューター・エングレービングに移行し始めます。スコア、アマデウスは共に伝統的なプレート・エングレービングに匹敵する高品質な楽譜製作が可能なことで知られていました。また、アマデウスはヘンレ社が初めて導入したコンピューター楽譜製作ソフトとしても知られています。

ところがどちらの楽譜製作プログラムも普及することはありませんでした。これらのソフトを使って楽譜を作成するには音符から記号まで全てのアイテムの配置を数値で入力する必要があり、コンピュータにも精通したミュージック・エングレーバーが必要とされました。加えて、これらのプログラムが動作するのに必要なオペレーティング・システムも廃れてしまったのが原因と言えます(スコアはMS-DOS、アマデウスはPDP-11やAtari ST上で作動)。

楽譜作成ソフトはこの30年間で驚きの発展を遂げました。コンピュータの画面上に映る五線譜に直感的に音楽を入力できるフィナーレシベリウスドリコ(Dorico)といった商用ソフトを使えば誰でも快適に、かなり綺麗な楽譜が作成出来るようになりました。フィナーレやシベリウスで手作業の微調整が出来るエングレーバー、またはユーザーであればほぼどんな楽譜も作成可能と言えます。 現在ではフィナーレとシベリウスが業界水準とみなされ、ドリコがそれを追従しているようです。

Image
Inseting Notes on Sibelius
シベリウスでの音符入力
Image
Inseting Notes on Dorico Pro
ドリコでの音符入力
Image
Typesetting notes on Lilypond
リリーポンドでの音符の入力

無料の楽譜作成ソフトとしてはとてもパワフルなリリーポンド(Lilypond)ミューズスコア(MuseScore)が注目に値します。これらのソフトウェアはそれぞれのウェブサイトから無料でダウンロード出来ます。

リリーポンドの興味深い点は伝統的なプレート・エングレービングでの楽譜製作の規範を踏襲する独自のタイプセッティング(植字)・アルゴリズムによって高品質な楽譜を製作することを理念としていることです。ウェブサイトによると、ベーレンライターやデュエム、デュラン、ホーフマイスター、ペータース、ショットを含む、楽譜製作黄金期とみなされている20世紀前半のヨーロッパの楽譜出版社を参考にしているそうです。ユーザーがシンプルなテキスト・ファイルにアルファベット文字と数字で音符を入力した後はソフトが自動的にレイアウトやフォーマットを受け持ち、とても美しい楽譜を出力します。

Image
ミューズスコアでの音符入力
ミューズスコアでの音符入力

ミューズスコアはフィナーレやシベリウスに似たグラフィック・ユーザー・インターフェイスを持ち、直感的に音符を入力することが出来ます。ミューズスコアが出力する楽譜はリリーポンドが出力する楽譜に見かけがほんの少し似ていますが、これはリリーポンドが開発したフェタ・ミュージック・フォントを利用しているからです。しかし、共通点はフォントのみだそうです。

読みやすい楽譜とは

楽譜とは作曲家/作品と演奏者間のコミュニケーション手段であることから、楽曲の内容を最も効率良く演奏家に伝えることが出来る楽譜が、すなわち読みやすい楽譜であると言えます。楽譜製作者としては、まず楽譜を読むどんな演奏者でも楽曲の内容を容易に理解することが出来る様、もし各作曲家固有の音楽的表現方法があった場合はそれを標準的な音楽表現方法に翻訳することが重要です。そして、演奏者がなるべく演奏のみに集中出来る様、楽譜上の視覚的な流れと音楽の内容が同期した自然なレイアウトを目指すことが重要です。

伝統的なプレート・ミュージック・エングレーバー達は長い間試行錯誤しながら読みやすい楽譜を製作するためのノウハウを蓄積していきました。以下にその実践例をいくつかご紹介したいと思います。

音楽フォント

Image
フォント・ウェイトの比較
Ex. 1: フォント・ウェイトの比較

フォント・ウェイト

フォント・ウェイト(フォントの太さ)は特に距離を置いた際に楽譜の読みやすさに大きな影響を与えます。

Ex. 1 はマウロ・ジュリアーニのソナタ ハ長調、作品15からの抜粋で、2種類の出版楽譜の比較です。上の楽譜はより太いフォントを使用しており、楽譜の読みやすさに貢献しています。

Ex. 2 はフェルナンド・ソルの練習曲16番(Book 2)、作品35からの抜粋で、2つの異なる出版楽譜の比較です。Ex.1同様上の版はより太いフォントを使用しており、読みやすさに貢献しています。特に下の版の付点は小さすぎて不明瞭です。

Image
Accidental symbol comparison
Ex. 2: フォントや臨時記号の比較

五線・加線・小節線・符幹の太さ

譜面台と演奏者の距離があった時など、フォントのウェイト(太さ)と同様に五線や加線、小節線、符幹の太さも楽譜の読みやすさに大きく影響を与えます。

Ex. 1 と Ex. 2 共に上の版の方が圧倒的に読みやすい理由は以下のとおりです。

  • 五線と音符が適切に太く、お互いのバランスが取れている
  • 小節線が明らかに五線より太い
  • 加線が明らかに五線より太い(Ex. 2a と Ex. 2bも参照)
  • 符幹が適切に太い

五線・加線・小節線・符幹という異なるアイテム間で明瞭に線の太さの違いが分かることにより、楽譜にコントラストが生まれ読みやすさに貢献しているのです。

符幹の長さ

Ex. 1 と Ex. 2 共に下の版の不適切な符幹の長さが楽譜の読みやすさに悪影響を与えているかを見ることが出来ます。

臨時記号

Image
ナチュラル記号や付点、加線の比較
Ex. 2a: ナチュラル記号や付点、加線の比較(Ex. 2 の拡大)

臨時記号のフォントのウェイトと配置も楽譜の読みやすさに影響を与えます。Ex. 2a と Ex. 2b は共に Ex. 2 の臨時記号の拡大です。それぞれ上の版の臨時記号は明らかにウェイトがあり垂直方向に大きいので明らかに明瞭さが向上しています。

Image
シャープ記号や加線の比較
Ex. 2b: シャープ記号や加線の比較(Ex. 2 の拡大)

臨時記号は視覚的な流れを乱さぬ様に符頭に十分近づけて配置するべきなのですが、複数の加線がある場合急に混雑して認識度が悪くなります。伝統的に若干短めの加線と組み合わせることでこの問題を回避することが一般的です。(Ex. 2b参照).

スペーシング

Image
音符のスペーシング比較
Ex. 3 音符のスペーシング比較

スペーシング(隙間)を最適化することは楽譜の読みやすさに貢献するのみならず、演奏者のパフォーマンスにも少なからず影響を与えます。

Ex. 3 はフェデリコ・モレーノ=トローバによるノクトゥルノ(夜想曲)からの抜粋です。まず初めに目につくのは小節幅の違いです。上の版はコンパクトであるのに対して下の版は音符間にかなりの隙間が空いているのでかなり横幅を取っています。上の版では明瞭さを欠く事無く必要最小限のスペースを利用してこの音楽的内容を楽譜に表現することに成功していると言えます。スペースの節約、またはスペースの無駄遣いを防ぐ事は演奏者の不必要な目の動きや譜めくりを減らす事につながり、読みやすい楽譜を作成する上で非常に重要です。

最適なスペーシングは楽曲の長さや印刷するページの大きさやフォーマットなど複数の要素によって変わってきますので注意が必要です。

Image
均等な音符の配置
Ex. 3a: 均等な音符の配置(Ex. 3 下の版の拡大)

音符のスペーシングは音価を反映するものでなくてはいけません。例えば、Ex. 3a はEx. 3 の下の版の拡大で、1つの16分休符とその後の3つの16分音符が1拍分のスペースに均等に分配されて配置されていることを表しています。つまり音価が正しく配置に反映されています。ところが、もう一度 Ex. 3 の下の版を見てみると、恐らく最初の16分休符とその後の16分音符との間隔の方がその後の3つの16分音符の間隔より広く感じられるはずです。これは我々の目が 最初の16分休符とその後の16分音符との間の距離、その後の3つの16分音符の符頭間の距離、そして3連続する16分音符の符幹の間の距離という3つの異なる間隔の距離を同時に見ているため、目の錯覚が引き起こされてしまうからです。Ex. 3 の上の版では音符の間隔を少し狭めることによりこの目の錯覚を補正してあるのです。そしてこの補正のおかげで演奏者は視覚的に音楽の流れを乱すこと無く自然に、そして容易に音楽のアイデア(この場合は16分音符のリズム)を理解できるのです。

Image
最後の音符の符幹とその後に続く小節線とのスペーシング比較
Ex. 3b: 最後の音符の符幹とその後に続く小節線とのスペーシング比較

その他の典型的なスペーシング調整として、ある条件を満たした小節最後の音の符幹とその後に続く小節線との間の微調整が挙げられます。Ex. 3b は Ex. 3(後半部分)の拡大です。下の版ではこの微調整がされて無いので、最後の16分音符の符幹と小節線との距離がかなり近いのが見て取れます。この版では符幹と小節線の太さが似ていることも加わり、楽譜の読みやすさが低下します。一方で、上の版では小節線が明らかに符幹より太いことに加えて、両者間のスペーシングを少し広めにとる微調整がされているので明瞭さが増しています。

最後の音符が連桁を伴っていない場合や、その音程が十分高い場合、または符幹の向きが下の場合はこの微調整の必要はありません。これは音程が十分高い場合は小節線と並行に並ぶ符幹の部分が少なく、符幹の向きが下の場合は符幹が符頭の左側にあるため小節線から十分離れているためです。

Image
音部記号と最初の音符との間隔の比較
Ex. 4: 音部記号と最初の音符との間隔の比較

同様に音部記号と小節の最初の音符との間隔の微調整も楽譜の読みやすさに貢献します。Ex. 4 はフェルナンド・ソルの練習曲3番、作品35からの抜粋で、2つの異なる出版楽譜の比較です。下の版では装飾音符(acciaccatura/アッチァッカトゥーラ)で始まるこの小節の微調整がされていない為に若干混雑しており、窮屈な印象を与えています。

連桁の角度

Image
連桁の角度の比較
Ex. 5: 連桁の角度の比較

常に平らな連桁を好む人がいるかも知れませんが、連桁の角度は楽譜の読みやすさに大きな影響を及ぼします。Ex. 5 は楽譜製作ソフトの初期設定のまま書き出した平らな連桁の例と手作業で連桁の角度を修正した例の比較です。2つ目のバージョンの方がより明瞭にアルベルティ・ベースの音楽的アイデアが視覚的に伝わってくると思います。連桁の角度はそれぞれの音符の符幹の長さにも影響を与えます。間延びしたような印象を与える1つ目のバージョンに比べ2つ目のバージョンの方は綺麗にまとまっていて、躍動感が伝わってくるはずです。